知るということ

以前に日記で書いたPodcastingってもんがどんなもんか体験してみた。使ったソフトは、iPodderってやつです(今現在はiTunes 4.9で対応済み)。
まだ、Podcastingの魅力?なんてものはわからんけども。
ふと思ったことがある。
「あまりに多くの情報が溢れている」
今更何言ってんの?と言う声が聞こえてきそうではありますが(;´Д`) 改めて実感しました。なんといっても、個人のリアルな声がネット上に溢れているんですから。
新聞、ラジオ、テレビ、こういった類いのものは、ある程度フィルタがかかった形で情報を提供しています。某国のように、今となってはやりすぎ?と思われるような形もありますが。今では、インターネットという巨大情報網の普及によって、そのフィルタはなくなりつつあると思います。
「それが何を引き起こすのか?」
それは色んなかたちで既に影響を及ぼしていると思うんです。残虐性のあるゲームがどうのこうの、こういった話を聞いたことがあると思います。影響を与えるか?与えないか?と言われれば、与えるでしょう。間違いなく。普通に生活をしていれば、そういったことに触れることはないわけですから。つまり、知ってしまったわけです。
「知る」というプロセスを経ると、次に「思う」というプロセスに移行します。「思う」のプロセスの過程で、「想像」することによって「思い」が増幅されるかもしれません。人は「思う」というプロセスを経て、「行動」というプロセスに移行します。つまり、自分という媒体から外部に対して影響を与えることになります。そして、このプロセスのサイクルは繰り返されます。まさに、輪廻転生といったところでしょうか (・∀・)
IT分野の流行り言葉?でPDCA(Plan Do Check Action)サイクルというものもありますが、昔から言われてることをうまく落とし込んだ手法なのかなぁっと思ったりw
「知る」→「思う」のプロセスにおいて、楽しいと感じることもあれば、怒りを感じることも、不快に感じることもあります。このときに、自分の心をしっかりと持っていれば(例えば、一つの目標に向かって一心不乱につき動いているときとかかな?)あまり芳しくない外的影響を受けたときでも惑わされることは無い気がする。気にしないで笑い飛ばすことができればいいのだが、人は皆(ワシも含め)そんなに強くはないもんです(´ヘ`;)
そう考えると、ヒキコモリなどは情報の氾濫という外的影響によって増えているんじゃないか?と思ったり。自分の殻に閉じこもって、インターネットの情報ばかり見て、そこにある情報を鵜呑みにしていたら、気が狂うと思いますよ。インターネットなんてただのツールです。でも、使いかたによっては強力な武器にもなるのも事実。自分の身(心)は自分で守る、あらゆるメディアの出現により情報から身(心)を守ることは、より個人へと委ねられている。
「じゃぁ、どうすればいいんだ?」
つまらんことをいちいち気にするなってことになるのでしょうかねぇ。ワシ自身、小さいことに気を病むたちなのでねぇ・・・。よく「落ちてる」と言うけれども、よーく考えれば、その原因は自分にあることがほとんどのような気がするんですけどねぇ。よく親に「クヨクヨしないで、気をしっかりもちなさい」と何かにつけて言われます(;´Д`) いやぁ、まったくそのとおりですわ(´▽`*)アハハ
話が飛びますが、Star WarsのEpisodeⅣ、Ⅴ、Ⅵと見直して、どんどんStar Warsが好きになってますw 見れば見るほど味がでます。映画の中で「force」について語られることは、ワシの親が言っていたことと同じようなことだと感じます。ヨーダの教えには、ほんとに胸を打たれまくりです。
書いてて、自分でもよくわからなくなってきましたが(´ヘ`;)、
「知る」ということについてのワシの妄想でした。
こういうことばっか考えてるから、クヨクヨすんのかなぁ・・・ヽ(;´Д`)ノ

コメント

  1. まりお より:
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